女はこうあるべきだとか、
男はこうあるべきだとか。
大人は年寄りは若者は社会人は社長は上司は部下は教師は生徒は母親は父親は子供は…
世の中は、人の属性に特定の態度を期待するよね。
その期待に応えていれば、世の中の一員として扱ってもらえる。
だからそう振る舞った方が無難ではあるけどさ。
その振る舞いに自分を押し込めてばっかりいると、「邪魔な感情」が出てくるんだよね。
「男なんだからこんな事で動じるべきじゃない」だとか。
「女なんだから今ここで怒るべきじゃない」とか。
「既婚なんだから人を好きになっちゃいけない」とか。
「親なんだから子供にイライラしちゃいけない」とか。
それから、自分で自分の型を作っちゃうときもある。
「今泣くのは私のキャラじゃないから我慢しよう」とか。
「怒ったりするのは自分らしくない」とか。
でも湧き上がった感情は、「はい!おしまい!」なんて消してしまえるものじゃない。
ぐっと抑えてその場をやり過ごせば誤魔化せる気がしても、ただ気がするだけ。
抑えつけた分だけ発酵したみたいに、押し込められた感情はブクブク膨らんでいやな匂いを発するようになり、しまいには爆発してしまう。
適切に表現できていれば、ずっと軽く済んだかもしれないのに。
あなたがこうありたいという姿は、あなたじゃない。
あなたにこうあってほしいと周囲が期待する姿も、あなたじゃない。
感情は、ただ沸き起こる。
それがダメだとかいいとか、そういう評価を一旦脇において、そういうものだと思って観察してみる。
雨が降っている時に、
「雨が降るのはふさわしくない」なんて言ったところで、何になるだろう。
「雨なんて降らせるな」
「雨が降るなんて許されない」
感情も同じだ。
感情は私たちのものじゃない。
脳は私たちのもの。
精神は私たちのもの。
感情は、私たちの精神という庭に降る雨や雪や雹のようなものだ。
感じてはいけない感情なんてありはしない。
友達に嫉妬する。
知り合いの不幸を喜んでしまう。
家族を恨んでしまう。
我が子が可愛くない。
もう生きていたくない。
その思いを胸に行動を起こすことには問題があったとしても、
そう思うこと、それ自体には何の問題もない。
「思うこと」と「行動すること」は驚くほど違っている。
「幸せになりたいと願うこと」と「幸せになること」は違う。
「結婚したいと思うこと」と「実際に結婚すること」は違うでしょう。
実行に移すことにどれほど問題があっても、感じた心はそれでいい。
怒りも、悲しみも沸き起こっていい。
苦しみの正体は、実は、怒りや悲しみそのものがもたらしてるのではなく、「怒ってはいけない」「悲しんではいけない」と自分を縛り付けていることによるもの、だったりする。
沸き起こってきた感情を、ただ、そのまま認める。
感情は、私たちに何もしない。雨が降っているときは、外に出なければ濡れもしない。
外に出るなら、傘をさせばいい。そんな風に、沸き起こってきた感情にただ、ただ対処する。淡々と対処する。そういう生き方を、私たちは選ぶことができる。
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