期待は必ず失望を生む。だから人に期待なんかしてはいけない。
なるほどその通りかもしれない。私たちが誰かにがっかりするとき、そこには必ず甘えがある。わかっていて欲しかった、あなたなら答えてくれると信じていた、あなたなら…。
期待イコール愛
だけど、人に期待するのが悪いことだなんて誰が言えるのか、とも思う。
私たちは誰でもかんでも期待をかける訳ではない。
見知らぬ人に期待をかけることなんてしない。
スーパーの駐輪場でうっかり自転車をドミノ倒しさせてしまった時には、素通りする買い物客を横目に見ながら、黙々と鉄塊を立て直す。
そんな経験は誰にだってあるはずで、でもそんな状況において「他人に対してがっかり」する人はいないのだ。
思いがけず誰かが手を差し伸べ、一緒になってこの重労働を手伝ってくれたならば「なんていい人だ、ありがとう」と感動を覚えるものである。
人は他人に期待しない。大事な人に期待するのである。恋人に、パートナーに、家族に、友達に、我が子に、上司に、部下に、同僚に。
はっきり言ってしまえば、期待とは友情であり、愛である。
明日遊ぼうねと約束を交わせるのは、相手がそれを守ってくれると期待するからだ。自分のものを貸すのは、相手がそれを大切に扱ってくれるだろうと期待するからだ。誰にも言えない秘密の話を打ち明けるのは、相手がその話に何かを感じてくれるだろうから。何かを教えるのは、きっと理解してくれるだろうから。
期待のないところに失望はない。
友情のないところに、愛のないところに、裏切りは存在しないのである。
「裏切られたと怒るくらいなら、期待するのをやめなさい。」
そんな教えは、一見正しいように見える。大人びていて、理路整然と、超然としていて、もっともらしく見える。
しかし、私たちはみんな、愛されたいとずっと願っているのではないですか。
つまり、私たちはみんな、期待されたい生き物ではないですか?
期待されると重いだなんて言うけれど、誰にも期待されない人生を歩みたい人なんていない。
期待したものが得られなかった時、期待した相手にその怒りをぶつけるべきでない。それはその通り。期待が裏切られて傷つき、怒り、悲しむ。その苦しみは自分で生み出したものであり、相手のせいではない。
だが、だからといって「期待なんかしなければいいのだ」「人に期待するな」というのは、ただのイジケ根性になっていやしないか。
「期待しない生き方」が快適であることは私も全く否定しない。しかし、その生き方がともすれば「愛さない生き方」と同義となることに気づいていない人も多いのではないか。
心を閉ざして期待を手放せば、傷つかない生き方ができる。でも、そんな生き方にどれほどの値打ちがあるのだろう?少なくとも、きっと耐えられる人は多くない。
問題は、傷つくことを受け入れられないことであって、人を愛すること、期待することそのものではない。
期待したい、裏切られることがわかっていても。
期待されたい、裏切ってしまうことがわかっていても。
いくつも傷をこさえながら、そして誰かを傷つけながら生きていく。
私は、そういうやり方を否定したくはないなと思う。
オマケ
と言いつつ過去に別の切り口でこんな記事も書いてる適当なわたくし↓
期待せず、諦めもしない。そんなスタンスでいられたら一番いいよねホントは。
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