トーンポリシングという言葉に警戒したい

トーンポリシングという言葉の使用にうっすら反対します。
うっすら、と言っているわけは、完全に反対するわけでもないからです。
この言葉が重要な意味を持つことはわかるのです。これまで虐げられてきた人間が不当な扱いを訴えるために声を上げたときに、その「声」の使い方が悪い、言い方が悪い、下品すぎる、粗暴すぎるといった本筋と関係ないところで批判し、その声を潰そうとするような行動は批判されるべきだという。
それは私もそう思います。
私も1人の市民、女として、過去の運動家たちが目の覚めるような強い言動・行動によって、ときには下品とされる行為をしてでも勝ち取った権利にタダ乗りしている立場で(と言っても不勉強なのでしっかり把握してるわけではないのですが)「言い方が悪い奴の言葉は聞いてもらえなくて当然」とは思わない。
しかし「もっと普通の言い方で言うべきだ」と言う人、「主張はともかく言い方がまずい、行動がまずい」と批判する言動全てを「トーンポリシングだ、お前は差別側だ、お前は邪悪だ」と責め立てることに正義があるとも思えないのです。こうした言葉に「お前は虐げられた弱者を抑圧し悪人の肩を持つのか!」という批判を行うのは、あまりにも全てを二極化しすぎていると思う。
繰り返しますが、トーンポリシングがトーンポリシングとして批判される場合はもちろんあります。しかしそれは「もっと穏やかに言った方がいい」と言っている人間が揚げ足とりに終始し、議論に参加しないような場合に限るはず。
だってトーンポリシングが常にいつどんな時も批判されるとしたら、
「誰も怒っている人を諫めてはいけない」世界が生まれてしまう。それはとてもやばい。やばいと思いませんか。
あなたは、誰かに怒鳴りつけられたり、悪人だと言われて猛烈に詰められたりしたことはないでしょうか。
その人たちに「なぜそんな言い方をするのですか。言いたいことがあるなら普通に言ってください」と伝えることが許されない世界は、恐怖でしかないでしょう。
「声を挙げた人の話の内容に関わらず、話し方が批判されることはありうる」のは当然ではないでしょうか。
「不当なことで怒っている人は諌められて当然だが、怒って当然の人が怒ることは諌められるべきではない。不当な怒りへの批判に対してトーンポリシングという指摘はなされない」という意見もあるでしょう。それはそうなのかもしれない。しかし、その判断を誰が?
いったい誰が「この人の怒りは不当なもので、この人の怒りは真っ当なものだ」と決めるのでしょうか?
世の中に、悪を為そうとして悪を為す人などいないのです。どんな悪人も自分を正当化する論理を持っている。それはもちろん私も。であれば、誰が「正しい判断」を下せるのでしょう?
人を殴るのはダメです。人の人格を攻撃するのはダメです。人の人権を侵害するのはダメです。それはいついかなる時でも、どういう理由があっても。
その前提を守らなくては、人権についてみんなで必死に考えてきた流れ自体が無意味になってしまわないでしょうか。
「あっちから先に攻撃してきたのだから、こっちの行動は批判されるべきものではない」
たくさんの戦争が、そのようにして起こっているのではないでしょうか。
私たちには「自分が正義だと思いたい」という強い強い願望があります。
だから「正義に立つ側には多少の悪は許される」というようなスタンス、また、そのようなスタンスにおいて有利に使える「トーンポリシング」のような言葉には警戒せねばならないと思うのです。
それは簡単に「私は何をやっても許される」という姿勢につながってしまうから。
「お前の言い方が悪い」という批判はあっていい。
しかしその批判が
「だからお前が悪い」という結論に着地してしまうとしたら、それは間違っています。
本来そうした間違いを指摘するために「トーンポリシング」という言葉があるはずです。
しかし「それはトーンポリシングである」という言葉が時に、その批判の矛先である「トーンポリシング」と同じように「だからお前が悪い」という結論を導いてしまっていないでしょうか。
相手の姿勢の一部分を反射的にあげつらって議論を終わらせてしまうような行動は、どのような立場でも間違っていると私は思うのです。
だからこの言葉に警戒したい、もう少し警戒して使っていきませんか?ということを言いたくて、この記事を書きました。
なお、絵には特に意味がありません。

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